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編集部が行ってみた!

土の城を歩く

郷土(かがわ)に眠る土の城 ~羽床城編~

遥かなる(?)羽床城

まいぷれ編集部の源九郎です。

唐突であるが僕は特定の虫がとても苦手だ。

蜂は無条件に怖い。
刺されると痛いし、蜂女のような顔も怖い。
飛来しないが4対8本以上の脚をもつものは、虫の図鑑を開くのすら恐ろしい。
そんな訳で、まだ暑い時期より取材目的であちこちの山城に出掛けては、耳元で羽音がしただけで転がるように逃げ帰る、ことを繰り返している。
羽床城跡
羽床城跡

そして待望(?)の冬である。

例年より寒さが厳しく感じるこの師走、僕は周囲で一番の寒がりではあるが、恐ろしい蜂たちの寿命が尽きているであろうこと、そして越冬できるようなやつらは落ち葉の下に隠れているだろうから、この時期はアタックのチャ~アァァンス!!

という訳で、秋口に登山口を覗きこむだけで撤退した羽床城跡にやって参りました。

ここまでは高松市内から車で30分程度だろうか、国道32号線を琴平方面に進み、ことでん羽床駅を過ぎたあたりで左折し国道377号線へ。ことでんの線路を越えて焼き鳥屋とコンビニのある信号を右折すると、すぐ左手に見えてる。


念のため申し上げると、決して羽床城跡に怖い思い出がある訳ではない。

来訪してみるとよくわかるが、地元にある羽床小学校の生徒さんが案内板や道しるべを設置し、定期的にボランティアの方たちが竹藪を伐採するなど、手作りの温かみを随所で感じることのできるスポットだ。

羽床城跡には駐車場が無い為、自転車や電車で来れるとよいのだが今回は知人の車で送迎をしてもらうことにした。


この羽床城跡、羽床駅の近くにあるためにそう呼ばれる訳ではない。

かつてこの付近一帯を治めた藤原氏にルーツを持つ武家、羽床氏がこの城と地名の由来だ。

この讃岐での衰勢を経た後の羽床資載の時代に、四国統一を目指す長宗我部元親に屈し、その長宗我部も豊臣秀吉の軍門に下る。

資載の死後、子の羽床資吉は秀吉の天下統一の総仕上げである九州征伐に参戦し戦死する。お家は断絶、羽床城も廃城となった。

南口よりいざ 本丸へ

この先に南口がある
この先に南口がある
今回はあらかじめ地図で見当をつけていた南の登り口(南口)からスタートした。

この登り口は、他所様の納屋(?)の脇にあるので前回は気遅れしたものだが、今回は新たに設置された道しるべが僕を勇気づけてくれる。
道しるべの通りすすんでみよう
道しるべの通りすすんでみよう
登り始めるとすぐに羽床城跡の道しるべが迎えてくれる。
周囲から観た印象よりもずっと広く、明るく、そして歩きやすい。
この道しるべを過ぎ10メートル程で左に折れるのが順路だ。
この先、左手に進むと本丸だ
この先、左手に進むと本丸だ
本丸への順路を示す道しるべ
本丸への順路を示す道しるべ

先に進むと本丸への入り口である虎口が見え、そこを抜けると本丸である。
わずか数分で到着、山というよりも土手にでも登ったという感じだ。
そこは想像していた以上に広く平坦である。


お城のはなし

すこし話がそれてしまうが、普段目に触れる事の多い高松城や丸亀城など戦国時代以降の城と、それ以前の城とではその 役割や設備が大きく違ったようだ。

前者は天守や櫓、書院などの設備の他に殿様の館、武家屋敷(現在は市街地となっていることが多い)なども外堀で取り囲んだ大規模なものだ。

それに比べ後者は他に屋敷等を構えそこに居住し、常駐しても兵士のみで、いざ有事となれば城に移動し物理的優位に戦うための軍事専用施設なのである。

これらの多くは不便な山のうえに築かれ、遅くても江戸時代には一国一城令により廃城となっているだろうから現代に生きる我々には馴染が無いわけだ。

本丸

本丸 東⇒西
本丸 東⇒西

この本丸の西側には貯水設備があるが城の遺構ではなく、石垣や礎石といった建造物の名残りのない、土だけの城跡だ。

本丸 南⇒北
本丸 南⇒北

こうして見ると寺社の境内のような雰囲気ではあるが、本丸と二の丸の周囲を覆う竹林のない状態であれば視界を妨げるものも無く、街道(現在の国道377号線)に睨みを効かせるには絶好だったのだろう。

この城が役目を終え400年を超えるが、具に観察してみると土塁の隆起と虎口の痕跡を確認出来る。

故に羽床城跡に立つと、ここが戦に備えたことを感じる事が出来るのだ。
標高としては80mほどあるこの山も、恐らく周囲との高低差は20m程度に感じる。
大軍に囲まれた場合には少し辛い気がする。


先に触れた土塁は本丸の北側と東側にその跡が確認できる。

いまでこそ丸みを帯びた土の山の様だが、築城当時は切立つ防御設備であったのだろう。

二ノ丸との境界線となる北側の土塁には虎口が設けてある。
本丸・二ノ丸間の虎口
本丸・二ノ丸間の虎口
虎口の先に拡がる二ノ丸
虎口の先に拡がる二ノ丸

この山頂は南半分が本丸、北半分が二ノ丸とであり、その境に土塁を設け虎口で接続している。

このまま二ノ丸にすすみむのが自然な流れであるが、ここはぐっとこらえ(?)一旦下山し、北側にある登り口(北口)から二ノ丸の北側へとすすむコースを散策してみたい。
本丸の西側斜面
本丸の西側斜面

この羽床城跡を南口から時計周りに進むと、山の西側にある通りに出る。

斜面を竹に覆われ確認する事はできないが複数の郭が存在するらしい。
山を右手に歩続けると5分程度で北口に到達するはずだ。

また南口より反時計回りに坂を登り、今坂池沿いに歩くとやはり5分程度で北口まで到達する。
今坂池
今坂池

北口より 二ノ丸へ

水の手曲輪

最近北口にも案内板が立ち、見つけやすくなった。
畦道をすすむとそこは、土の隆起を持つ中世の城特有の光景だ。
井戸の残る水の手曲輪
井戸の残る水の手曲輪

北口から歩き始めるとすぐに水の手曲輪が現れ、そこには井戸が今も残る。

コンクリートで覆われているが覗いてみると、恐らく当時のものであろう石積みが確認出きる。
案内板によるとお姫様が顔を洗ったとされるが、落城時のエピソードなのだろうか。

コンクリートで保護された古井戸
コンクリートで保護された古井戸
覗き込み石積を観察
覗き込み石積を観察
この井戸から南方向、二ノ丸方向へのルートをすすんでゆく。
このルートは外敵による山腹の横移動を阻むための、いわゆる竪堀のようである。
写真は二ノ丸側より見下ろしたもの(南⇒北)
二ノ丸への土橋と空濠
二ノ丸への土橋と空濠

坂を上がった曲輪には所々にお墓が確認出来るだけで、竹林に阻まれ他の遺構等を観察することができなかった。

更に進むと二ノ丸へと続く土橋に到着する。
土橋は空濠を渡る為のもので、その東側(写真左手)は高低差が残るが西側は消滅し平坦になっている。
土橋ちかくの石碑
土橋ちかくの石碑

土橋の右手に設置された案内板に羽床城と羽床氏の歴史について詳しく紹介されている。(見取り図内の②)

羽床城跡から古代の宝飾装身具などが出土し、周囲に古墳群があることなどから、この城郭が古墳を利用したものと見られている。

羽床城跡を歩いてみると山頂の本丸、二の丸とその下段(二の段)と大きく二つに分かれていることが分かる。
以前歩いた茶臼山城(古墳)王墓山古墳も似たデザインであることから、古墳の再利用もうなづける。

羽床城跡、本丸の下にある帯状の曲輪は古墳の名残りか
羽床城跡、本丸の下にある帯状の曲輪は古墳の名残りか
王墓山古墳(善通寺市)
茶臼山古墳(さぬき市)

二ノ丸

土橋から先を見上げると二ノ丸への虎口で、坂をあがると二ノ丸に到着だ。

二ノ丸の土塁


本丸と同様に、この二ノ丸に建造物の遺構などは見あたらず、羽床氏についての碑と祠(見取り図内の①)があるだけだ。

二ノ丸の東側、西側には土塁が確認できる。
南側に見える土塁は本丸からみた北側の土塁と同一であり、ここが羽床城の中心でといえる。

このほか二ノ丸の北(下段)にある曲輪は、先程の案内板の他、お墓が点在しており、、本丸の東(下段)にも曲輪も確認することができる。
本丸の、西側(下段)の曲輪群は、本丸からも竹藪に阻まれ目視することは出来ない。

それでも主要な曲輪や、そこへのルートは地元の方々のおかげで迷う事も無く、遺構も観察できとてもありがたい。
この寒いうち(?)に、さらに幾つかの城を廻ってみたい。
二ノ丸の土塁 東(写真左手)への備えだ
二ノ丸の土塁 東(写真左手)への備えだ
二ノ丸の土塁上より北方向を眺む
二ノ丸の土塁上より北方向を眺む
二ノ丸より眺む本丸への虎口
二ノ丸より眺む本丸への虎口
虎口
虎口

編集後記

羽床城跡、秋口から機会をうかがいながら訪問のチャンスが無かったこの中世の城をようやく堪能することができました。
といっても竹藪や雑木林をかき分け踏み入る勇気もなく、地元の皆様が手入れ下さっている範囲に限られたものです。

羽床城、小振りなものの土塁を備えた郭や竪堀、空濠など築城技術を結集したものです。

数百年もの風化を経て残る土塁・虎口などの遺構を眺め、イマジネーションを膨ませてみて下さい。

かつてこの城に拠り、やがて四国の覇者となる長宗我部氏と対峙したという羽床一族。
或いは大軍を前に慄く兵士たち、またそれらの士気を鼓舞する侍大将などつわものどもの存在や息遣いを感じることができるかもしれません。

ページ内の見取り図(平面図)を作成するにあたっては、綾南町(現 綾川町)の発行した羽床城跡の調査報告書を参考にさせて戴きました。
平成6年度から当時5年間に渡り詳細な調査を経て作成された資料です。
現存しない空濠や土塁、今は深い竹藪に隠れた曲輪群と堅堀等など散策だけでは知り得ない遺構を知るうえで大変貴重な資料でした。

勝手な願望、というより非現実的な妄想にすぎませんが、この羽床城跡や引田城跡などは、遺構周辺の雑木を伐採し芝生などを植えて整備してくれると、どんなに素晴らしいだろうかと思う今日此頃であります。

次回はあの山城をご案内したいと思います。

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